シリーズ第6回【論語から生き方を学ぶ】第3章~八佾(はちいつ)前編1~8節《副題》何の為に学ぶのか…
人は何の為に学のか…己の利益追求の為だけの勉学になってないか?
儀式はなんのために行うのか…外見・見栄だけで行われていないか?
混沌とした、今の時代を生きるための答えが見えてくる…
現在に続く東洋の聖書…
人間としての生き方とは…
人として生きる目的とは…
真の幸せとは・喜びとは…
多くのことを私たちに悟らせてくれます…
さぁー!自信と勇気の源を探す旅へ出かけましょう!
八佾(はちいつ)とは?
八佾(はちいつ)とは先祖を供養する時に捧げたり、君主に対しての従順を示す意味を込めて奉納する、歌や踊りの一つです
八佾(はちいつ)を孔子はこよなく愛し弟子たちともよく話をされていたようです
第3章では孔子が愛した八佾(はちいつ)についてお弟子さんとのやり取りが書かれています
一体どのようなやり取りがあったのでしょうか?
第3章~八佾(はちいつ)は26節あり、1~8節を前編、9~16節を中編、17~26節を後編として、記事を書き進めて行きたいと思います
心豊かに人生を送るためにも論語はとても良い読み物です、一緒に読み進め勉強していきましょう
今回もどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m
引き続き前回までと被る内容が続きます
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シリーズ第6回【論語から生き方を学ぶ】第3章~八佾(はちいつ)前編1~8節
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論語とは何か
紀元前500年代、今から2500年以上前に中国に実在した孔子と言う君子(くんし)の言葉をそのお弟子さんたちにより言い伝えられ現在でも広く使われている名言やことわざです
「へーこんなことわざも論語から来ているの!…」
「この4文字熟語は原点が論語なの!…」
知らず知らずのうちに日本人の生活に溶け込んで論語が使われています
そのような論語について書かれた書籍はたくさん出版されていますがその中で今回私が記事を書くにあたって参考にした本が…
書籍「完訳 論語」
井波律子(訳)「完訳 論語」
副題「論語 世界へのいざない」
論語の第1章から第20章、全512節の解説・解釈がされています
論語を全て網羅した現代語訳の数少ない本です
あなたにとっての生きるためのヒントが必ず見つかるでしょう
岩波書店から発売されている井波律子さんが訳した論語の書籍「完訳 論語」です
この本は全編にわたり全ての論語の現代語訳がしっかりと書かれていて論語を勉強するにはもってこいのお勧めの一冊ではないでしょうか
この著書には論語の現代語訳とともに論語の意味・解説も記述されています
論語は読む人によってその解釈も変わって来ます
論語は読者が主役になれる本なのです
読者の思想・信条により論語の内容の捉え方は変わってくるのです
今回は私(そら)の解釈に沿って読み進め、記事を書いていきます
読者の皆様には私の思想・信条も見えてくるのではないかと思います
今回の記事や論語を読んで皆さんはどのように解釈されるでしょうか?
論語は各章が16~30節以上の『孔子やお弟子さんの発言された言葉』から構成されており第20章まで全部で512節あります
それでは一緒に《論語から生き方を学ぶ》勉強をしていきましょう
第3章~八佾(はちいつ)第1節
礼は己の見栄の為の物では無い
- 謂(い) … 批評する
- 忍 … 平気でする。
私の解釈
孔先生が魯国の家老である季(季孫~三桓氏…参照)氏に対して批評した、8人8列の天子しか許されていない舞《八佾(はちいつ)》を自分の家の前庭で舞わした。礼儀・礼節を重んじず、このような卑劣で僭上沙汰(せんじょうざた)な事が許されるのであるならば、世の中に許されないことはないであろう。
※僭上沙汰(せんじょうざた)…身分を越えて出過ぎた行いをすること。
私の感想
八佾(はちいつ)の8人8列の舞は天子にのみに許された儀式で、家老という身分で季氏がこれをを個人宅で行うということは礼儀・礼節を弁えぬ愚か者であると孔子先生が激怒したものです。
季氏は大夫なので16人の舞しか許されていなかった。
礼儀と節度を守って初めて規律ある国家・社会が保たれることを考えると、人は身分相応の振舞いをするべきである
第3章~八佾(はちいつ)第2節
身分相応の振る舞い
- 三家者…季孫氏、孟孫氏、叔孫氏の三家
- 雍(よう)…天子に捧げるなごやかな歌
私の解釈
三家老が自身宅の祭祀のお開きに雍(天子のための歌)の歌を演奏させた。先生がこれを聞いて激怒した。雍の詩には、『諸侯が祭りを取り仕切るものであるとし。その場に天子が鎮座して威儀を正して行うもの』という意味の言葉もある本来ならば、三家老の屋敷で行われるはずのものではない!身の程知らずである。
※威儀…規律に沿った立ち居、振る舞い。
私の感想
規律・礼儀・節度を重んじる孔子が君子のみが許されている、歌や踊りを重臣という地位を利用して、自宅で好き勝手に行なったことに対して、規律や礼節を守らない三家に対して憤慨して言われた言葉です
語釈
- 相くる…諸侯が政治に参加すること
- 維…繋ぐ。結ぶ。
- 辟公 … 諸侯のこと。
- 天子…君主。王。
- 穆穆…奥ゆかしい。
- 奚…なに?。なぜ?。
- 堂 … 座敷。
第3章~八佾(はちいつ)第3節
見せかけの権力者は民衆から愛されない
- ※不仁 … 人間らしい愛情がないこと。
- ※如何(いかん)…いかがなものか。
- ※楽 … 礼の儀式を行なうときの音楽。歌や舞。
私の解釈
先生が言われた、見せかけの愛情や思いやりしか持ち合わせていない者が、礼節を学んでも何の役にも立たない。人として誠実な愛情や思いやりを持っていないものが歌や踊りを学んだとして何の役に立つだろう
私の感想
孔子先生は、ここでも何のために学ぶのか…何のために生きるのか…学ぶことの本心を付いて、この言葉をお話しされたのだと思います
孔子先生の思いが私には痛いほどわかります
「地位や名誉だけを得るためだけに、学問を学んだとしても、そこに礼儀や節度、人としての誠実な心と、思いやりや愛情がなければ、幾ら学問を学んだとて、何の価値もなく、何の魅力もない人間だと言うことを、孔子先生は述べるとともに、同じように歌や踊りを学んだとしても、小手先の形を真似るのみで本当の《楽》の意味や価値を理解することもできないでしょう」
という様なことを、お話しされたのだと感じます。
このような言葉を孔子先生から伺う事こそが、論語を勉強する醍醐味だとヒシヒシと感じます。
吉川幸次郎先生も著書「論語 上」で以下のように訳されています
- 「われわれ人間が、もし人間らしい愛情をもたないとすれば、あの大切な礼はどうなる、楽はどうなる。礼も楽も、いずれも見せかけの文化になってしまって、礼が礼としてもつべき人間的な内容、楽が楽としてもつべき人間的な内容は、うしなわれ、空虚なものとなってしまうであろう」『論語 上』朝日選書。第3章~八佾(はちいつ)
第3章~八佾(はちいつ)第4節
葬儀は質素に多大な情を持って弔う
- ※林放…魯人とあるが、詳細は不明。※礼之本 … 礼の本質。
- ※大哉問 … りっぱな質問だね。「問うこと、大なる哉」
- ※奢 … おごる。贅沢にする。
私の解釈
林放が礼の本質について尋ねた。先生が言われた「ずいぶんと壮大な質問だね」、礼儀は豪華・盛大に金品・物品をかけて行うよりもできるだけ質素につつがなく行う方が良い。
特に喪中(そうちゅう)の儀式に関しては、念入りに形式ばって行うことよりも、亡くなられた方への深い情を示すことが最も大事です
私の感想
ここでも孔子先生の《礼》に対しての、向かい方と言うか、接し方がよく示されています、近年のようにゴタゴタと飾り付けて行われる儀式が増えている中で、このような言葉は《礼》の目的、儀式の意味を改めて考えさせられます
特に喪中(そうちゅう)の《礼》に関してはお金をかけて装飾を施して行うよりは、質素でも良いから、もっと亡くなられた方への愛情や思いを寄せることが大事ですと語っています
孔子先生のおっしゃる通りですね
語釈
- ※与其~也寧 … 「その~ならんよりは、むしろ…」と訓読する。「~より…のほうがよい」の意。二者択一の形。
- ※倹 … つつましやか。質素。※喪 … 喪礼。死者に対する礼。
- ※易…儀式が整うこと※戚 … 悲しみいたむこと。
第3章~八佾(はちいつ)第5節
己の欲に溺れるな
- 夷狄…未開民族。
- 有君…賢明で賢い君主
- 諸夏 … 中国の諸国。
私の解釈
先生が言われた。「夷狄」である、モンゴル族とか満州族の国でさえ、賢い君主がいて平穏に国を統治している。
それなのに、中国諸国は立派な君主がいるにも関わらず、諸侯が下克上を繰り返し、全く統治能力を失っている、これではただの無法国家ではないか。
私の感想
解釈は二つあるが今回は私の解釈として訳しました。
ここで言われている「夷狄」とは、当時、モンゴル族とか満州族のことをさしていて、これらの国でさえ(※当時自分たちの国よりも劣った民族と思っていた)、君主がいて平穏に国を統治している。
それなのに、我が国には立派な君主がいるにも関わらず諸侯が下克上を繰り返し国の統治を成していない。
と、自国の状況を憂いて言われたのだと思います。
このような状況においても魯国をはじめとして中国諸国が、持続しているのは中国諸国民の意識の高さや、文化文明の伝説が脈々と受け継がれているからだと孔子はここで、言いたかったのではないでしょうか
私の解釈は上記のように《論語集解》の中華思想本位的な解釈を改めた《論語集注》に記載されている…
「未開国でさえ君主がいて平穏に国を統治している。今の中国のような無秩序な状態ではない」と解釈している説を採用しました。
※論語集解では全く反対の解釈をしており…「夷狄に於いては、文明国である中国の無君主状態にも及ばない」というような解釈をしている
語釈
- 亡…無い。皆無。
- 不如…「ごとくならず」と読み、「~のようではない」と解釈している。
第3章~八佾(はちいつ)第6節
《礼》を粗末にしてはならない
- 季氏 … 魯国の家臣。wiki【三桓氏】参照。
- 旅…山の神を祭る大祭。
- 泰山…山東省にある名山
私の解釈
本来であれば君主が行うはずの泰山の山神を祀る大祭を李氏が行なうと言う話を聞いた
先生が冉有に対して問い正した。
李氏のそのような暴挙をお前はやめて下さいと言えないのか?!
冉有が答えて言った「言えません…」
孔子先生が言われた「なんと情けない事だ…お前は泰山の神様を今、礼法の勉強をし始めた新参者の弟子の林放よりも礼法に劣るとでも思っているのか!」
私の感想
これは李氏の世話係である冉有に対して叱責したものです
泰山の山神様というものは、どれほど偉大なものなのか、礼法の神としても頂点に立つほどの神様なのだと冉有に言い聞かせ、
「君主のみに許された泰山の催事を魯国の一家老でしかない李氏に大祭を行わせるとは泰山の神様を今、礼法の勉強を始めた林放よりも劣っているとでも言うのか!」と
冉有に対して激怒したということです
神に対する礼儀・礼節を大切にしなさい(守りなさい)ということを言ったのでしょう
語釈
第3章~八佾(はちいつ)第7節
賢者は友好の為に試合をする
- 揖譲 … 両手を前に組み合わせて挨拶をする
- 升下 … 堂と庭のあいだを昇り降りする。
- 飲…酒を飲ませる。
- 而して…そうして
私の解釈
先生が言われた。
君子という賢者の人格者はは争うような人物ではない、争うというよりも弓の腕前を競い合う事はある、そしてその試合も礼儀と礼節を大切にし、決まり事に沿ってお互いが相手を尊敬し合い挨拶を交わし競技を行う、試合後は、お互いの腕前を称え合い、酒を飲み交わす
君子というものは、そのような立派な人物のことだよ
私の感想
《君主たるもの、冷静沈着であれ》
賢者は争いを好まず誠実で礼儀礼節をわきまえ、冷静沈着でなければならない
一国の君主として、多くの民を従えて険しく困難な道を進まなければならない時もある
そのような時に冷静さを失い混乱に陥ると言うことは多くの民を困難な道へと引き入れてしまう
君主の判断とはそれほど重大な決断であり大きな責任を持っている
先日放送された《斉天を衝け》のドラマの中で、若き日の徳川慶喜が『キジ狩り』の儀に際して、弓矢で見事、キジに的中させ父上に頭を垂れて報告された
若き七郎丸(後の徳川慶喜)が、厳正に毅然とした姿で演じられました
まさに君子になるべき人物像だと改めてこの句を読み思いました
語釈
- 無所争…争うようなことはしない。
- 必也射乎…争うことがあるとすれば弓の試合の時ぐらいだろう
- 其争也君子…紳士的な競技なのだ。
第3章~八佾(はちいつ)第8節
「礼に始まり礼に終わる」…孔子の精神ここにあり!
私の解釈
子夏が先生に尋ねた…
「巧笑倩(こうしょうせん)たり…笑うとえくぼがクッキリ笑顔が可愛い」、
「美目盼(びもくはん)たり…つぶらな瞳はパッチリと」、
「素(そ)以て絢(あや)を為す…白い肌が美貌を引き立たせる」
とあるがいったい何のことですか?
孔子先生が答えられた…
絵というものは最後に白を加えると際立つと言う事だよ
子夏が言った…
学問や教養を勉強した上で最後に《礼》を身に付ける事で人間として完成の域に達するということですね
先生は言われた…
よくぞ察してくれた、君のような人間とこそ素晴らしい詩の話が一緒にできるというものだよ
私の感想
孔子先生が礼儀・礼節をとても大切にしていたという事がここの詩句でもよく分かります
子夏は「目鼻立ちの可愛い女性は化粧の最後にオシロイで顔を引き立たせる、との詩句には、何か深い意味があるのですか?」と孔子先生に問いただした。
それに対して先生は絵の描きかたで答えた
更に、それに対して子夏は、人間の生き方も礼によって完結すると先生に答えた
先生と子夏との見事な会話のキャッチボールで子夏の優秀さに先生も大変喜ばれたということでしょう
そして人間というものは学問や教養の積み重ねの上に《礼》というものが生まれその《礼》こそが人として最も大切なものだと言うことを先生は説いているのだと感じました
まとめ
今回の記事で《礼》という言葉が何度も取り上げられました、それほど孔子先生が大事にされていた言葉だと思います
八佾(はちいつ)もまた《礼》がとても大切だということを今回の記事を書くにあたり勉強させていただきました
相撲道も神に奉納する為に行われたのが始まりと聞いています
「礼に始まり礼に終わる」
武道などの練習や試合前によく言われる言葉ですよね
今では当たり前に使われている言葉も元を辿れば、2500年以上も前の時代から脈々と受け継がれている言葉で、今日でも練習や試合の前にはお互いの栄誉を称えて広く使われているということです
日本人が如何に孔子先生や弟子たちの言葉「論語」を大切にしてきたかが、今回の記事を書くにあたってもとても良くわかりました
今回も最後までお読みいただきありがとうございました
次回の記事でまたお会いしましょう