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感動人物伝「65万のアフガン人の命を救った日本人医師」中村哲

緑の大地となった「ガンべリ砂漠」をバックに笑顔の中村哲先生

小高いアフガンの山に登り石に腰掛け笑顔いっぱいの中村哲先生

山の頂上から見下ろすと遠く眼下には緑が広がり木々が生い茂りそしてその間には小麦や果物が植えられていて一体が穀倉地帯になっています

ここが数年前までは草木が1本も生えていない死の谷「ガンべリ砂漠」

だったとは想像さえできないのではないでしょうか

用水路建設前の「ガンべリ砂漠」
用水路建設後の「ガンベリ砂漠」
中村医師はどんな少年だったのですか?
中村医師はなぜアフガンに行くことになったのですか?
中村医師はなぜ用水路を作ることになったのですか?
中村医師の功績は用水路建設だけですか?

虫や昆虫が大好きだった中村少年はファーブル先生のような昆虫学者を目指したかったものの祖父の一言から医者を目指すことになったのです

全く関係のないような昆虫学者になる夢と医者と言う職業が合体

してアフガンへと導かれた中村先生がそこで見た光景はこの世の地獄だったのでした

ハンセン病や腸チフス・赤痢などに苦しみ喘ぐアフガンの人々のために診察や手術そしてときには山々をめぐり診療施設から遠く離れた山村で病気で苦しむ人々の治療に当たり続けたのでした

しかしアフガンの人々の病気や苦しみは一向に改善されずその原因が汚染された水を飲み子供たちが次々と死んでいくと言うことを知った中村先生は

「100カ所の診療所よりも1本の用水路」

と言い

「緑の大地計画」

を行うことを宣言し自ら現場に出向き危険もかえりみず作業に取り掛かることになったのです

大河から水を引き「アーベ・マルワリード(真珠の水)用水路」を建設し死の谷「ガンべり砂漠」を緑の大地に変えた中村先生の幼少期からパキスタンとアフガニスタンでの活動の生涯をとてもわかりやすく記事にまとめました

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感動人物伝「65万のアフガン人の命を救った日本人医師」中村哲

アフガンで2019年12月に銃弾に倒れた中村哲医師

日本やアフガンの人たちに親しまれた「中村哲 先生」が何をした人なのか小学生・中学生の子供たちにも理解できるように比較的簡単に解説してみました

また小さいお子様にも読み聞かせてあげて下さい

中村哲先生の祖母の言葉

中村先生の家族は哲さんがまだ小さかった頃は母方の実家で暮らしていました

祖母「いいかい哲ちゃん!どんな虫にも魂がある!小さな命も大切にしなくてはならないんだよ」

おばあちゃんから子供心にいつもきかされていた言葉です

哲少年はその言葉が頭から離れなかったようで小さな虫や昆虫に大いに興味を持ちはじめ珍しい蝶や昆虫などを見つけてはとても興味深く観察するような子に育ったのです

そんな哲少年は将来は昆虫学者になりたかったようなのです

中村哲先生の祖父の言葉

祖父は職人を何人も使う親分肌で義理・人情に厚く困っている人がいたら家に上げて食事をさせると言うような人柄だったそうです

その祖父が成長した哲さんに

「1族に1人ぐらい医者がいても良いのではないか」

との一言で

医学部を目指すことになった哲青年はそれでも昆虫や蝶への興味をあきらめることができず医者の中では一番自分の時間が作れそうな神経科の先生になれば野山に出かけて好きな昆虫を観察する時間が作れるのではないかと言う甘い考えのもとで神経科の先生を目指すことになったのです

初めてのアフガニスタン

大学を卒業し精神科に勤めていたある日アフガニスタンの山に登るために随行する医者が必要だという話を聞きつけアフガンの山には世界的に希少な蝶が生息しているのを調べて知っていた中村先生は有無を言わさず登山隊に随行する旨を伝え登山隊とともにアフガンに向かったのでした

*登山隊には必ず医者が随行しなければならないようです

出典〜標本販売「三角紙」

*中村哲先生が興味を示したと言うアフガンのヒンドゥークシ山脈地帯に生息する希少種

「オートクラトールウスバシロチョウ」

*中村哲先生は『もし私が昆虫好きでなければアフガンとの縁はありませんでした』とのちに語っている」

病気に苦しむアフガンの人々を後に

アフガンの高い山を目指して登山隊に随行した中村先生がアフガンで目にしたものは山間部の村々で医師がいなくて病気に苦しみ耐え忍んでいたアフガンの貧しい人々の姿でした

登山隊とともに医者が山村まで来たと言う噂を聞きつけてあちらこちらの村から病人が中村さんを頼ってやってきたのでした

しかし中村先生が持っていた薬や医療用具は登山隊のために用意した限られた数量しかありませんでした

中村さんは後ろ髪を引かれるような思いで病気の患者たちがいる村を後にするしかありませんでした

月日は経ち中村さんは日本で精神科の先生をしていました

中村先生は以前に登山隊と登った山々の美しさが忘れられなかったようで昆虫とともに山登りも好きになっていたのでした

中村先生の夢はファーブルのような暮らしがしたかったようです

再びアフガンの地へ

そしてある時パキスタン北西部の地域でハンセン病が流行しイスラムの人たちがとても苦しんでいると言うことを聞きつけ精神科の医師の派遣を望んでいると言うことを知ったのでした

*ハンセン病には精神科医が治療に当たります

いまだに昆虫や蝶に関心のあった中村先生は治療しながら趣味の山登りや昆虫観察もできると言う少し甘い考えも頭にあったと同時に人々を救うことも考えてパキスタン北西部のペシャワールと言う街に向かったのでした

中村先生は現地に到着して自分の考えがいかに甘かったかを思い知らされたのでした

それは一言で言って地獄だったといいます

過疎地への診療

「だれも行かなければ我々が行く!」

病院に来れず苦しんでいる人たちのためにパキスタンやアフガンの山々を片道1週間以上もかけて山間部の小さな村々をおとずれ病気で苦しんでいる子供たちやお年寄りを無償で診察して回ったことも何度もあったそうです

中村先生は日本円で20円の薬さえも買えないアフガンの人たちに無償で診察を続けたのです

しかし診察や治療を繰り返しても子供たちが次々と病気や飢餓で死んで行き雨が降らず干ばつで荒れ果てた大地は作物が育たず大人たちも生きるのが精一杯の状態だったのです

すべての苦しみは水不足から

泥水を飲むアフガンの子供たち 出典〜西日本新聞

中村先生は数年間は医療活動を続けたものの根本的な原因は干ばつで汚れた水を飲みそれが原因で病気になり子供たちや弱い人たちが次々と死んでいくと言うことを知ったのです

井戸を掘る

「誰もしないから、我々がする」

特に干ばつが激しく水不足が発生していたアフガンの北東部ジャララバードに本拠地を移して医療活動を行うとともに医者でありながら水の確保のために井戸掘りを行うようになったのです

井戸の中に降りていく中村先生 出典〜西日本新聞

しかし飲み水は何とか確保したものの食物を育てるための農業用水までには全く足りずそんな中でさらに干ばつが広がり井戸水も干上がるようになってきたのです

中村先生はこれはもう遠く離れた河川から用水路を作り水を引いて乾いた大地を農地に変えるしかないと考えるようになったのです

*アフガンの大河は夏になると雪解け水で洪水が発生し川の近くには人が住むことができないほど氾濫するために人々は川から遠く離れた土地に住むしかなく女性や子どもたちが何キロも歩いて川の水を汲みに行かなければならないと言う過酷な生活を余儀なくされていたのです

アフガン「緑の大地計画」始動

中村先生はすべての問題を解決するにはアフガン北東部を流れるクナール川から死の谷「ガンベリ砂漠」まで20キロ以上と言う用水路を建設し水を引いて干上がった土地を開墾し作物を育てると言う壮大な「緑の大地計画」を立てたのでした

この無謀な計画に最初は誰もそんな事はできっこないと反対していたのですが中村先生の真剣な思いと説得にアフガンの人たちも自分たちが生きていくためにはそれしか方法がないと言う事を自覚しスコップと鶴嘴しかない状態でも用水路建設を行うことになったのです

アフガンの人たちの願いは

  • 3度の飯が食べれること
  • 家族と一緒に暮らすことができること

ただこれだけなのです

中村先生がパキスタンのペシャワールに就任したと同時に中村先生の活動を支えようと日本側でも支援団体「ペシャワール会」が発足し募金活動が活発に行われていました

中村先生がアフガニスタンで水不足解消のために用水路建設を行うと言った時にも「ペシャワール会」は今まで以上に自分たちの支援の手を休めることなく募金活動を継続したのでした

*こちらの「ペシャワール会」のホームページから入会・寄付などができます

*ペシャワール会では中村哲先生関連の書籍の販売やイベントなどの情報も随時更新しています

中村先生のアフガンでの医療活動や用水路建設を行うことができたのも日本側で活動していた「ペシャワール会」や日本人の善意があってのことです

中村先生は用水路建設に当たってまったくの素人だったのでときには高校生の娘さんの数学の本を借りて「微分・積分」など1から「土木工学」について勉強しなければならなかったのです

夏には洪水で氾濫し荒れ狂い冬には水かさが下がり水量が減るクナール川から水を引いて用水路に取り入れるためにはどうしたら良いのか必死に調べ始めたのでした

「温故知新」江戸時代の土木技術

そしてその最大のヒントが日本にあったのです!

それは江戸時代に干ばつに苦しむ農民たちが作り上げた

山田堰やまだぜき

だったのです

「山田堰」は中村哲先生の地元である福岡県にある農業用の取水施設で江戸時代に干ばつで苦しむ農民たちを救うために筑後川から水を取り入れ耕作地を作り稲作を行い多くの人々の命を守ったのでした

中村先生は徹底的に「山田堰」を研究しこれと同じ方法でクナール川からの取水口を作り上げさらに何度も改良を加え夏の洪水にも冬の水かさが下がった時でも安定してクナール川から水を取り入れ用水路に流し込めるようにしたのです

福岡県の筑後川と「山田堰」出典〜ペシャワール会
アフガニスタンのクナール川斜め堰と「マルワリード用水路取水口」出典〜ペシャワール会

*両方の画像を比べると本当にそっくりですね

用水路建設も建設機材やコンクリートの調達が難しい現地の人でも長く維持管理できるように日本の昔の技術を使った

蛇籠じゃかご

太い針金を編み上げ中に石を積み重ねて用水路の両璧を作ると言う工法です

さらに用水路の両脇にやなぎの木を植えて柳の木の根が蛇籠の隙間に入り込みさらに両璧を丈夫にすると言う昔からの日本の知恵をここアフガニスタンでも採用したのでした

土木機械は(鶴嘴ツルハシ)とスコップ

季節が変わってもアフガンの人たちの鶴嘴ツルハシとスコップを持っての用水路建設は続きます

マルワリード用水路建設工事~多くの地元民が作業に携わった

摂氏50度以上にもなると言うガンべリ砂漠で鶴嘴ツルハシとスコップだけでの作業は過酷で次々と日射病で倒れる人がいる中でも生きていくために必要な用水路建設の作業は休むことなく続けられたのでした

「真珠の水」用水路完成!

両岸の柳もかなり成長したマルワリード用水路 出典〜西日本新聞

そして2000年から行われた「真珠の水」を意味するアーベ・マルワリード用水路が2010年についに完成したのです

建設途中のモスクと神学校:出典〜ペシャワール会

中村先生は用水路だけではなく地元の住民のためにモスクを建設したり子供たちのために神学校を作り地域の人たちのよりどころとなる場所にしたのです

マルワリード用水路最終地点付近に作られた記念公園

またガンベリ砂漠の最終地点には日ごろの農作業の疲れを癒す憩いの場所としてまた人々が集う安らぎの場所として「マルワリード用水路記念公園」を建設し地元の方が気軽に訪れる公園になっています

中村先生の用水路建設はこれで終わらずに次々と取水堰が作られ用水路建設も進められ灌漑用水工事は続けられました

深い悲しみとアフガンの人々の謝罪

そんな中でアフガンと日本に激震が走ったのです

2019年12月いつものように工事現場に向かう中村先生の乗った車を過激分子が襲い中村先生や運転手やガードしていたアフガンの人たち合わせて6名が銃弾に倒れて亡くなったのでした

アフガニスタン政府は重大犯罪と認定し国を挙げて犯人逮捕に全力を上げて捜査したものの実行犯が捕まらず現在もまだ犯人逮捕には至っていないのです

中村先生の死で日本人への許しを請うプラカード 出典〜西日本新聞

アフガン国内の人々や在日アフガン人の人たちは日本語で日本人の皆さんに

「中村先生を守ることができなくて本当に申し訳ない」

とプラカードを掲げ中村先生の死を惜しみ我々日本人に許しを請うたのでした

中村哲先生が残した「アーベ・マルワリード(真珠の水)」

中村先生はじめ地元のアフガン人そして日本で募金活動を続けたペシャワール会を始め多くの日本人たちの協力によって完成した「マルワリード用水路」

「アーベ・マルワリード(真珠の水)用水路」〜西日本新聞

両岸に植えた柳の木が成長し木々の間から刺した日差しが水面に反射しまるで真珠が輝いているように見える様はまさに

「アーベ・マルワリード(真珠の水)」

の様だと地元の人が話しているとのことです

中村先生亡き後も先生の遺志を継いだ現地スタッフらがアフガニスタンで「ペシャワール会」を支えに現在も活動を続けています…

中村哲先生が教えてくれたこと

中村哲 先生は私たちにいろいろなことを教えてくれました

  • 権力にびず弱者に寄り添って生きる
  • 自分や仲間の事よりも多くの人たちのために生きる
  • 小さな虫や動物にも愛情を持って接する
  • 小さな積み重ねが成功につながる
  • 自分ができることを精一杯やる
  • 諦めずに継続する事で成功者となれる
  • みんなでやれば苦難も乗り越える
  • 目標を立て突き進む強い意志
  • 温故知新を大切にする
  • 生きるとは何か
  • 本当の幸せとは何か
  • お金よりも大事なものとは

まだまだたくさんあります

中村先生は人の生き方の本質を身を持って教えてくれました

私は中村先生関連の著書を5冊ほどとても興味深く読ませていただきました

今回執筆した記事をご覧になった皆様は中村先生は本当に苦労されて楽しむ暇もなく必死にアフガンの人々に尽くしたと思われたのではないでしょうか

確かにそうかもしれません

でも中村先生は要所要所で自分の楽しみも味わっていたのです

アフガンの山々をめぐり病気で苦しんでいる人たちのために村々を訪れる道中では趣味の音楽を聴きながら山歩きをしたそうです

特に好きだったのがモーツァルトの「トルコ行進曲」でこの曲を聴きくと山歩きが楽しく苦にならなかったそうです

また山歩きの道中の道端で休憩した時など小さな虫などを探しては

「この虫はこんな特徴がある」

などと妄想したり新しい昆虫がいないか探したりしていたそうです

用水路建設で取水口を作る際にユンボを運転してる時などは面白くて何時間も操作していたそうです

「医者よりもこっちの方が私に向いているような気がする」

と周りにいた人を笑わせたりもしていたそうです

私が特にオススメしたい中村先生の著書の中ではノンフィクション作家の澤地久枝さんが中村哲さんにインタビューしたものを書籍に書き写した

「人は愛するに足りる、真心は信ずるに足りる/アフガンとの約束」

と言う著書です

澤地久枝さんは中村哲さんの16歳ほど年上で弟を思いやるお姉さんのようなまなざしで話を伺っていたというのがとても素敵でした

*澤地久枝さん自身も激動の人生を歩んでこられた方です

そしてノンフィクション作家の澤地久枝さんのインタビューは中村哲さんの生い立ちやご家族のことなどあまり世間に知られることがないことまでもインタビュアーとして聞いておられます

中村哲先生も気さくにお話をされマスコミではあまり報道されることのない先生の身近なお話まで著書には書かれています

専門的な医療の知識や土木作業の知識などよりも先生の生い立ちや「中村哲」と言う人柄・人物像に迫った著書でもあります

ぜひお時間がある時にでも中村先生の著書をお読みになってみてはいかがですか

最後に

心から中村哲先生のご冥福をお祈りいたします

中村哲 先生の関連書籍

中村哲 先生の関連DVD

中村医師が命をおとしてまでも残したものは何なのか

その視線の先に目指していたものは何なのか

荒野に希望の灯をともす

アフガニスタンとパキスタンで35年にわたり、病や戦乱、そして干ばつに苦しむ人々に寄り添いながら命を救い、生きる手助けをしてきた医師・中村哲。 NGO平和医療日本(PMS)を率いて、医療支援と用水路の建設を行ってきた。 活動において特筆すべきことは、その長さだけではなく、支援の姿勢がまったくぶれることなく、一貫していたことだ…

かつての干ばつの大地を恵豊かな緑野に替え、65万人の命を支えている

銃弾に倒れた中村哲先生の遺した文章と1000時間に及ぶ記録映像をもとに、現地活動の実践と思想をひも解く

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